畑菜穂子

記事一覧(34)

「お昼はちょっといいうどん屋に連れていってあげる」私の耳に、よく通る男性の声が飛び込んできた。ここは隣駅のカフェだ。家では仕事に集中できないと思い、子を保育園に送り届けた後に自転車で来たのだった。声の主を探そうと周りを見渡すと、一つ席を隔てた先に鮮やかなグリーンのポロシャツを着た恰幅のいい中年男性が得意げに話していた。向かい側にいるのは、つまらなそうな表情を見せる中年女性。不機嫌がデフォルトであるかのような女性の様子からして、二人は夫婦なのではと予想される。女性は、「いいうどん屋」については何の反応も示していない。「四国の店でさ……」女性の表情や相槌のないことにまったく気づいていない様子の男性は、うどん屋の話を続ける。女性の声は、やはり聞こえてこない。私は仕事を続けることにした。「そろそろ行くか」男性の話が終わったらしい。女性が立ち上がったとたん、「ちょ、ちょ、ちょっと」と男性はグラスの二つ載ったトレイを女性に渡そうする。どうやら、「ちょ、ちょ、ちょっと」は「トレイを片づけてほしい」という意味らしい。しかし、女性は受け取らない。仕方なく男性はトレイを持ったままソファを立ち上がろうとするものの、またすわってしまう。テーブルとソファ席の間が狭すぎるため、手を使わないとうまく立てないからだ。「一旦テーブルにトレイを置いてから立ち上がれば?」モゾモゾとする男性に、女性は助言する。その言葉がなかったかのように男性は、「よいっしょっと!」と大きな声を出し、トレイを持ったまま立ち上がった。時計を見ると11時過ぎだ。この後二人はちょっといいうどん屋に行くのだろう。私は女性の言葉の行方を考える。男性に向けられたはずの言葉が相手に届くことはきっとない。彼女が発した言葉たちは、成仏されることなく男性の周りを漂うのだろうか。それとも、男性が眠っている間に目や鼻や耳から体内へと入っていくのだろうか。別の店で昼食を食べたあと本日2軒目のカフェに入ってからも、私の頭は行き場のない言葉のことでいっぱいだった。男性に受け止められなかった言葉を私が引き受けたつもりになっていたのかもしれない。

長く持っているもの

「ハイジの家」と呼んでいたミドリ色の屋根の遊具の前で、直立不動で立っている子どものころの姉とわたし。父が撮影した写真をシールにしたものがキキララのピンク色の箱に貼られている。薄汚れた箱はパンパンに膨れあがり、スナップでどうにか止まっている状態だ。ふたを空けるとスヌーピーやハローキティなどのキャラクターものや定規で切り取ったルーズリーフの一部などの紙きれがドサッとこぼれ落ちた。友人Aが作ってくれたピザやサラダを食べ終わると、箱の中身をつかんでテーブルの上に広げる。わたしはビールを、Aは「紅茶の味がする」というノンアルコールビールを飲みながら、小さく折りたたまれた紙をひとつひとつ開いていく。「今の席がいやすぎて泣きそう」とか「テスト前いつ遊ぶー?」といった高校生のたわいもない日常が書かれている。「さっきの返事、これじゃない?」とペアを見つけては「おお!」と盛り上がる。「ねえ、ルンバケってなんだと思う?」わたしが手にした紙には、ちょっと大人っぽいAの字で「ルンバケ、見たよー」と書いてあったのだ。「えー、わかんない。なんだろう?」2人とも全くおぼえていないのに、とりあえず思い出そうというそぶりをする。ひと通りチェックし終えると、箱から新たな紙束を投入する。「ルンバケの正体、わかったよ」Aが笑いをこらえながら、十字に折り目のついた小さな紙を手渡した。「出口智子、すぶたとしのぶwithナオコ・キャンベル……」自分が書いた文字を読み上げる。当時人気のあったドラマ「ロングバケーション」のパロディのつもりらしい。表面にはご丁寧に「ザ・テレビジョン」と書いてある。「なになに?」と隣の部屋で昼寝をしていたAの夫のYちゃんもやってきて、「やっていることが今と全然変わってないよね」と3人で笑った。「次回は、対になってるものを集めた手紙スクラップを作ろうね」。大井町駅の改札まで見送りにきてくれた2人と、そう言って別れた。※米光一成さんのライター講座に通っていたころに書いた文章を一部修正したものです(タイトルは課題のテーマです)。この”箱の中身”がなくなってしまいとてもショックだったので、気持ちの整理のためにアップしました

梅仕事ではなく梅しごと

ていねいな暮らしの初夏の風物詩ともいえる「梅しごと」。Instagramでよく見かけるようになったので試しにハッシュタグ検索をしたら、10,985件の投稿があった(ちなみに「梅仕事」で検索したところ、出てきたのは70,478件。どうやら「梅しごと」とひらくのが主流のようだ)。私はお酒が飲めないので、夏に飲むのは麦茶か炭酸水だ。だから、梅シロップや梅サワー(酢入りのシロップ)があると、飲み物のバリエーションが広がって単純にうれしい。暑い日に外から帰ってきて、氷と水で薄めたシロップをぐびっと飲むのは至福でもある。仕込むのは少し面倒だけど、梅から少しずつ出る果汁が砂糖を溶かしていく過程を毎日チェックするのは、何かを育てているようでとてもワクワクする。そう、私は「梅しごと」をしているのだが、恥ずかしくてその言葉は使えない。画像についてもそうだ。梅酒や梅シロップの画像をInstagramで見ると素敵だとは思う。ただ、その素敵の中に自分が入ると考えただけで、いたたまれなくなってしまう。どうやら「梅しごと」は、私の中で「ほっこり」と同じくらいの意味をもってしまっているようだ。自分が不器用な分、誰かが手作りしたものを見たり、食べたりすることが好きだ。でも、そこに「自家製の無農薬○○を使った〜」や「オーガニックコットンの〜」などの言葉がくっついていると、ちょっとだけ手を伸ばすことをためらってしまう。我ながら面倒くさい性格だと思う。例外もある。子どもといるときは、食べ物であれば「子どもが口にできるか」にだけ着目できるため、ストッパーをあっさりと外すことができるのだ。そして、その先に待っているのは「おいしい」や「好き」の場合も多い。ストッパーなんて外してしまった方が楽しいことが増えるのかもしれない。でもさ、少しの抵抗が残っているくらいが心地いい。たまに”ストッパーの向こう側”に行くくらいが私にはちょうどいいのかもしれない。

踊りとか歌とか

昨日の朝、着替えをしていた娘が変な体制のままフリーズした。「どうしたの?」と聞くと、「画像だから動けません!」とのこと。「それ、おもしろい! お父さんにも見せよう!」と絶賛したところ、今度はおふざけ口調で「画像だからうにゃうにゃうにゃ……(途中から聞き取れず)」と言っていた。どうやら、さらにおもしろいことをしようと思っておふざけ要素を加えちゃったもよう。このままでは、せっかくのギャグがもったいない。「おもしろいことを言うときは、おふざけ口調で言うよりも、普通に言った方がおもしろいよ」と謎のアドバイスをしてしまった。5歳ともなると、「おきつさん(おつきさん)」、「おかさな(おさかな)」など、1〜3歳のころによくある”言いまちがい”をすることががほぼなくなってしまった。少し寂しさを感じる反面、頭を使って話すことが結果的におもしろさにつながることを楽しめる時期でもある。我が家では朝ごはんのときにTBSラジオの「森本毅郎スタンバイ!」を聴くのが日課になっている。テレビをつけると保育園の準備ができなくなるからなのだけど、最近は「朝ごはんをちゃんと食べる」ことを条件に7時〜7時15分まではEテレの「シャキーン!」視聴タイムに変わった。「お母さんは、めいちゃんとモモエちゃん(どちらも子役が扮するキャラクター)どっちが好き?」と聞かれたので、「前はももえちゃんだったけど、メイちゃんの歌も好きだから、今はどっちも好きだよ」と答えた。私の話をうけて、「○○ちゃん(保育園の友だち)は、めいちゃんの歌の意味がわからないって言ってる。モモエちゃんは、もっとダンスをがんばった方がいいと思う」と分析モードで話す娘。(※ちなみに、今月のシャキーンでめいちゃんが歌っている「TEA PARTY」という曲は、作詞・岩見十夢、作曲・Koji Nakamura、コーラス・フルカワミキ。映像にはミキちゃんとナカコーも登場する。学生時代にチョコレートパフェやスーパーカーを聴いていた母的としては、青春がすごい勢いで戻ってきたような感覚です)話す内容に成長を感じる一方で、私が演じるモモエちゃんやプリキュアを相手に本気で照れたり、よろこんだりする様子を見ると、ちょっとだけほっとする。

イヤイヤ期に励まされる

5歳の娘が絶賛反抗期だ。保育園登園前や出かける前に、まったく準備をせずに絵を書いている。ときには塗り絵をしたり、ただひたすら寝転んでいたりもする。注意するとすかさず言い返してくるか無視してやり続けるのだ。あまり子育てでムキーッとならない方だと思っていたのに、毎朝怒っている自分がいる。別に機嫌が悪いわけじゃない。娘の場合、機嫌のいい・悪いと準備をしないのとは必ずしもイコールではないのだ。「好きなことをしているときは邪魔をしない」「子どもが自分から行動するまで待つ」本やサイトで読んだ子育て論のアレコレが頭に浮かび少しの罪悪感に襲われるものの、そんなことをしていたら、いつまでたっても保育園にはたどり着けないよ。イヤイヤが激しかった1歳後半〜2歳のころ。あの頃は小さかったし言い返されることもなかった。今思うとかわいいもんだったよな〜と当時の画像を眺めながら感慨に浸る……つもりが思い出したよ。ぜんっぜん楽じゃなかったことを。なぜか私以外の人には「おはよう」の代わりに「イヤー」「ガリー(ひっかいているつもり)」と言い、自分の決めた人以外が靴を履かせたりベビーカーにのせたりすると泣き叫んで抵抗……。育児系の何かでイヤイヤ期の対処法として「◯◯と◯◯どっちがいい? と選択肢を与えて選ばせるといい」と読んだので試してはみたけど、まったく効果なし。くいしんぼうだったので、外食はしやすかったのがせめてもの救いだった。あの頃と比べると、普通におしゃべりしたり、お手伝いしてくれたり、できることが増えたもんだ。私は怒ることが増えたけど、笑うこともぐっと増えた。先週は娘の提案で「バイキング(ブッフェ)ごっこ」をしたけどなかなかおもしろかった。中学生くらいになって本格的な反抗期がやってきたころに、今の反抗期のことも甘酸っぱく思い出すのかもしれない。

年末年始をもう一度

大晦日に熱を出し、目がさめると2018年に突入していた。少しだけ厳かな気分に浸りながら「一年が経つのは早いねえ」なんてしみじみする時間もなく、子どもと一緒に眠るいつもの夜。年越しそばも食べてなければ「ゆく年くる年」も見ていない。私の持て余した年末感は、どう消化すればいいのだろう。翌日からは大阪にある夫の実家へ。お節にてっちり(ふぐ鍋)、てっさ(ふぐ刺し)、大好きな古漬け……義母が用意してくれたごちそうが並ぶも、存分に食べられない自分の体調不良がうらめしい。紅白、初詣、初売り、正月のTV番組……年末年始に対して消化不良のまま気づくと4日になっていた。昨晩は、子どもを寝かせたあと念願の「ゴッドタン」の「マジ歌選手権」を3日遅れで鑑賞。毎度のことながら、バナナマンの日村さん演じるヒム子を見て相方の設楽さんが他の誰よりも笑う姿を見て幸せな気分に浸る。ハライチ岩井さんの腐りっぷりもずっと見ていたいくらい心地いい。余韻に浸りながら時計を見ると0時前、普段の就寝時間から2時間近くオーバーしているではないか。でも私は布団には入らず、3分の2ページほど読んだ小川洋子の『凍りついた香り』を手に取る。翌日は仕事だけど読み終わるまでは寝ないと決めた。だって年末年始プレイだもの。今晩は録画した「キングちゃん」とできれば「ドキュメンタル」も見て、ついでにアイスも食べちゃおう。私の年末年始プレイはまだまだ続く、そして睡眠不足も続く。