「お昼はちょっといいうどん屋に連れていってあげる」
私の耳に、よく通る男性の声が飛び込んできた。ここは隣駅のカフェだ。家では仕事に集中できないと思い、子を保育園に送り届けた後に自転車で来たのだった。声の主を探そうと周りを見渡すと、一つ席を隔てた先に鮮やかなグリーンのポロシャツを着た恰幅のいい中年男性が得意げに話していた。向かい側にいるのは、つまらなそうな表情を見せる中年女性。不機嫌がデフォルトであるかのような女性の様子からして、二人は夫婦なのではと予想される。女性は、「いいうどん屋」については何の反応も示していない。
「四国の店でさ……」
女性の表情や相槌のないことにまったく気づいていない様子の男性は、うどん屋の話を続ける。女性の声は、やはり聞こえてこない。私は仕事を続けることにした。
「そろそろ行くか」
男性の話が終わったらしい。女性が立ち上がったとたん、
「ちょ、ちょ、ちょっと」
と男性はグラスの二つ載ったトレイを女性に渡そうする。どうやら、「ちょ、ちょ、ちょっと」は「トレイを片づけてほしい」という意味らしい。しかし、女性は受け取らない。仕方なく男性はトレイを持ったままソファを立ち上がろうとするものの、またすわってしまう。テーブルとソファ席の間が狭すぎるため、手を使わないとうまく立てないからだ。
「一旦テーブルにトレイを置いてから立ち上がれば?」
モゾモゾとする男性に、女性は助言する。その言葉がなかったかのように男性は、
「よいっしょっと!」
と大きな声を出し、トレイを持ったまま立ち上がった。時計を見ると11時過ぎだ。この後二人はちょっといいうどん屋に行くのだろう。
私は女性の言葉の行方を考える。男性に向けられたはずの言葉が相手に届くことはきっとない。彼女が発した言葉たちは、成仏されることなく男性の周りを漂うのだろうか。それとも、男性が眠っている間に目や鼻や耳から体内へと入っていくのだろうか。
別の店で昼食を食べたあと本日2軒目のカフェに入ってからも、私の頭は行き場のない言葉のことでいっぱいだった。
男性に受け止められなかった言葉を私が引き受けたつもりになっていたのかもしれない。
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